多余的話

大沢武彦のブログです。

ユン・チアン,J・ハリデイ『マオ―誰も知らなかった毛沢東 上』(その7)

僕の『マオ』に対するレビューも長くなりましたので、独立して[『マオ』書評]というカテゴリを作りました。僕の『マオ』対する評価をまとめて読みたい方はそちらをクリックしていただけると便利です(順番が逆で申し訳ないです)。さて、続きです。


前回は同書に対する全体的な評価を述べた。その上で、今回から本書の問題点を細かい部分まで立ち入って論じたい。なお結論を先に述べるならば、以下に述べる問題点があるため、この本が主張する「新事実」をそのまま鵜呑みにするのはかなり危険だと僕は思っている。

  • つながっていない因果関係・恣意的な引用

(その5)のコメント欄にもあるように本書には、つながっていない因果関係或いはミスリードを誘う記述が多い。しかもその際に状況を無視した恣意的な引用が見られる。以下に、気付いて確認を取れた点を記す。


◎1931年の蒋介石による抗日民族統一戦線の提案


同書によれば、1931年の満洲事変直後、蒋介石中国共産党に抗日統一戦線を提起したが、中共はこれを拒否したため、第四次囲剿作戦を決定したという(上巻、p.179)。天児慧氏と同様に*1、僕もこの記述には疑問を持った。なぜなら、管見のかぎり、従来の研究でほとんどの指摘されたことが無い「事実」だからである。以下に引用しよう(下線は引用者によるもの、以下も断りが無い限りは同様)。

「今回の国難は、これによって国内が一致団結すらならば、禍を転じて福となす好機かもしれぬ」と、蒋介石は日記に書いている。南京政府はただちに「共産勢力に対する囲剿戦を・・・・一時停止」することに決定し、抗日統一戦線を提案した。が、中国共産党は、統一戦線への参加など「可笑到万分的謡言」(笑止千万の戯言)とはねつけた。(上巻、p.179)

その上で同書は、次のように評価している。

その後、歴史は改竄され、現在、愛国的で抗日に熱心だったのは国民党よりも中国共産党のほうである、ということになっている。「統一戦線」や「一致対外」を提案したのも、国民党ではなく中国共産党であったということになっている。これらは全て真実の歴史ではない。(上巻、p.179)

この記述のどこに問題点があるだろうか。さし当たり、この部分の注釈をそのまま引用しよう(〔〕は引用者が補ったものを示す)。

179 「今回の国難は」:20 Sept.1931,*Chiang〔秦孝儀主編『総統蒋公大事長編初稿』台北、1978年〕,pp.386-7.「囲剿戦を・・・・一時停止」:21.Sept.1931,ibid.,p.387.中国共産党は統一戦線を拒絶:CCP declaration,30 Sept.1930〔「中国共産党日帝国主義強占東三省第二次宣言」1930年9月30日〕,*ZZWX〔中央档案館編『中共中央文献選集』中央党校出版社〕 vol.7,pp.426-30.

まず、気になるのは、下線の「抗日統一戦線を提案した」の根拠となる資料が無いことである。ついで「中共が統一戦線を拒絶」という箇所の資料を見ると、厳密に言えば、これは中共が国民政府からの統一戦線の提案を拒否したというものではない。この資料は、国民政府が「民族統一戦線」という言葉を使って中共や学生、労働者を弾圧している、と中共が国民政府を批判する宣伝文書なのである。すなわち『マオ』は、掃討作戦の中止と中共による国民政府批判の文書をつなげて、上の内容を記しているのである。


だとすれば、この時に国民政府の方より中共に対して、「統一戦線」の提案があったという事実自体が疑わしい。また、資料の日時を見てみると、蒋介石の日記(9月21日)→中共側資料(9月30日)となっており、この短い期間に国民政府からの統一戦線の提案があって、中共がそれを拒否し公表したということはあり得ないと思われる。もし、そうで無いならば、まさに下線部分にあたる資料を提示する必要が著者にはある。


そもそも、どうも著者は統一戦線を提案することが、抗日に「熱心」で「愛国的」であると考えているのかもしれないが、言うまでもなくその統一戦線の中身こそが問題であろう。国民政府と中共がどのような関係を結ぶのか、その支配地域をどうするのか、軍隊をどうするのか等々、検討すべき問題は多々ある。本書のように、その中身を全く問うことなく、先に提案したかどうかで以上の評価を下すのは極めてナンセンスだと思う。


◎戦後内戦期の食料輸出


同書では、1945〜1949年の国共内戦において、中共ソ連から援助を受け、その見返りとして毎年100万トンの食糧を輸出し、その結果、共産党支配地域では飢饉が起こり餓死者が出たと記している。その事例として延安や山西省、東北の飢餓の例を、同書は挙げている(上巻、p.503)。しかし、おそらく延安と山西の飢餓は、この食糧輸出と関係ない。なぜなら、この100万トンという数字は、東北から輸出される食料の量だからである*2。つまり、食糧の輸出と山西・延安の「飢餓」との間に因果関係は認められないのである。


そもそも内戦の最中に、東北のように交通が発達しておらずソ連とも国境を接していない延安や山西の食糧を中共がわざわざソ連に輸出するゆとりは無いであろう。延安や山西で「飢餓」が発生したのが事実であったとしても、それはおそらく別の原因であったと考えられる*3


そして、同書では、何の根拠もなく、毛沢東スターリンに借りを作ることを嫌い、進んで食糧をソ連に提供したと書いている(上巻、p.502-503.)。しかし、著者自身が典拠としている資料の該当ページを読めば、最初に中共側が食料輸出を提案したことは事実であっても、その量を大きく引き上げたのはソ連側の要求であるとはっきり書かれている*4。当然、著者はこの箇所を読んでいるはずなのに、検討することなくこうした記述を無視し、毛沢東にのみその責任を被せていることは明らかである。

この件に関しては、僕の論文も間もなくでるはずなので、詳しくはそちらも御参照下さい(さり気なく宣伝)。


毛沢東朝鮮戦争に対する態度

〔1949年5月〕毛沢東金日成に対する援助を確約し、ピョンヤンの南攻を支援するにやぶさかではないが、自分が中国全土を制圧するまで今少し待ってほしい、北朝鮮政府が南に対する全面攻撃を一九五〇年前半に予定してくれれば、はるかに好都合・・・・」と答えた。そして、「必要ならば、ひそかに中国兵を差し向けることも可能だ」と、わざわざ付け加えた。朝鮮人と中国人はどちらも髪が黒いから、アメリカ人は見分けがつかず、「気づかないだろう」というのが毛沢東の考えだった。
 すでに一九四九年五月の時点で、毛沢東金日成に対して南へ侵攻してアメリカと対決するようけしかけ、中国からの人的支援を持ちかけていたことになる。
(下巻、p.53-54。)

上の引用は、1949年5月に北京で行われた毛沢東北朝鮮からやって来た特使金一との会談内容を記した部分である。この箇所を素直に読めば、1949年の5月から毛沢東朝鮮戦争を引き起こそうと金日成に積極的に働きかけたと読める。しかし、事態はおそらく違う。


この会談内容を伝えるのは、ロシアの公文書館に残る2つの電報である。1つは中共に派遣されたソ連の代表コヴァリョフがスターリンに送ったものであり、もう1つはピョンヤン駐在大使シトゥイコフがヴィシンスキーに送った電報である*5。当然、『マオ』もこの2つの電報をもとに会談内容を記している。しかし、『マオ』には記されていないのだが、この2つの電報の内容は、かなり違う内容のものなのである。ここでは、2つの電報に対する朱建栄氏の考察を紹介しよう*6


まず、コヴァリョフは北朝鮮の軍事戦略に関する毛沢東の判断を、中国側の説明に基づいてスターリンに次のように説明している。毛沢東は、韓国軍の北進に反撃しなければならないが、日本軍が介入してくる場合、慎重に対応し、一時後退して、進入する敵軍を包囲・殲滅する戦術を取るべきだと進言するかたわら、「米軍が去り、日本軍が来なければ、この情勢の下では南朝鮮への攻撃を企てずに、より適当な情勢の到来を待つべきである」と述べた。つまり、この電報によれば、毛沢東は、この時期のスターリンと同様に、北朝鮮の韓国への攻撃に反対しているのである。


次いで、シトゥイコフの電報はどうだろうか。この電報の内容は『マオ』の記述とほぼ一致しており、コヴァリョフのものと全く異なっている。この電報によれば、毛沢東は、北朝鮮は軍事行動に周到な準備をすべきで「朝鮮の戦いでは早期決着と持久戦の二つの可能性があるが、持久戦はあなたたちにとって不利だ」「あなたたちは心配しなくてもよい。ソ連はすぐ隣にあり、われわれは東北にいて、必要があればわれわれはひそかに中国軍兵士をあなたたちのところに派遣することができる。みんな黒い髪の毛だから誰も見分けがつかない」と話した、となっている。


しかし、ここで気をつけなければならないのは、この電報は、金日成がシトゥイコフに報告した内容がもとになっていることだ。つまり、この電報には金日成が中国の慎重論をスターリンに隠し、毛沢東の「賛成」をもってスターリンからの支持を取り付けようとする意図が込められているのだ*7金日成というバイアスのかかったシトゥイコフ電報よりは、直接、毛沢東からメッセージを託されたコヴァリョフ電報の方がより毛の意図に近いことは言うまでもない。『マオ』は、内容が明らかに矛盾する2つの電報を根拠としながら、その差異を無視し恣意的に記述していることがわかる。


さらに付け加えれば、二つの下線部分は、この内容の矛盾する電報からそれぞれ引用してつなげているのである*8

  • 小括


総じて言えば、『マオ』で述べられている「事実」の多くは、おそらく何らかの根拠があることは間違いない。しかし、問題なのは、そのつなぎ方、或いは、論証の方法なのである。少ない事例であるが、少なくとも『マオ』の資料の扱い方がフェアとは言えないことは明らかにできたと思う。

次は「スパイ」について検討する。(その8へ続く)

*1:天児慧「衝撃の書『マオ』の読み方」『現代』2006年1月号、p.236

*2:例えば、著者の根拠の一つである Liu Shao-chi(劉少奇) lettter to Stalin,6 July 1949 Far Earstern Affairs no.5,1996,pp.87-88を読めば、「Manchuria」から食糧を輸出するとはっきり書かれている。つまり、「中国」全体ではない。

*3:ただし、東北について言えば、「飢餓」とまで言えるかは不明だが、この交易によってかなりの負担が農民に課せられたと思われる。

*4:王首道の回想。劉統『東北解放戦争紀実』東方出版社、p.517。付け加えれば、無論、王首道の回想自体が正しいのかという問題もあろう。当然、これはソ連側の資料を付き合わせて検証する必要があるし、多くのソ連側資料を発掘している『マオ』だからこそ、そうした作業を行うべきだったのではとも思う。

*5:それぞれ、沈志華編『朝鮮戦争:俄国档案館的解密文件』台湾・中央研究院近代史研究所史料叢刊48、2003年、上巻、pp.187,189に中国語訳されて収録されている。

*6:朱建栄『毛沢東朝鮮戦争岩波現代文庫、2004年、pp.47-48。

*7:朱建栄、前掲書、p.48。

*8:前者がコヴァリョフ、後者がシトゥイコフの電報から、しかも、前者は明らかに内容を誤読している。