多余的話

大沢武彦のブログです。

『春秋』2006年10月号原稿

拙稿「虚妄の歴史を越えて−ユン・チアン、ジョン・ハリデイ『マオ』を読む」『春秋』2006年10月号をこちらにも再録します。


「虚妄の歴史を越えて−ユン・チアン、ジョン・ハリデイ『マオ』を読む」
                                         大沢武彦

 私が大学に入学して中国近現代史に興味を持ち始めた頃、ちょうど読んだのがユン・チアンの『ワイルド・スワン』(土屋京子訳講談社)であった。自身の家族史を軸として、まさに中国近現代史の荒波を描ききった佳作として非常に興味深く読んだ思い出がある。
 彼女とその夫であるジョン・ハリデイの『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(土屋京子訳 講談社)が本屋で大きく平積みされたのを見て、懐かしく思い手に取った。しかし、同書を読み始めてみると、中国近現代史を学んできた者にとって、多くの奇妙な記述に次々とぶつかった。安っぽいモンスターのような毛沢東、史料的裏付けが極めて怪しい断定の連続で、私は当惑しあの『ワイルド・スワン』を書いた著者は一体どうなってしまったのだろうかと感じた。さらに驚きであったのが、多くの中国専門家や評論家が『マオ』を「衝撃的」と持ち上げたことである。そのせいもあって、同書は大きな反響を呼び一七万部を超えるベストセラーとなった。この風潮に危機感を覚えた私は、歴史を学ぶ者としてその問題点を広く訴える必要を感じた。以下はそのとっかかりにすぎない*1


 『マオ』は言うまでもなく毛沢東の伝記であり、五四運動から第二次世界大戦中華人民共和国の成立、そして文化大革命というまさに中国の激動期を扱っている。従来の毛沢東に関する通説を捏造、インチキとした上で、その実像は一貫して残虐なサディストであり、共産主義や農村にも関心が無く、軍事的、政治的に無能で、他者を動かす陰謀にのみ長けている人物として描いている。そのような毛沢東が、中国の指導者となり得たのは、他のライバルたちよりも冷酷非情で陰謀に長けていたからだと主張する。
 中国共産党(以下、「中共」)による革命も、「解放」ではなく、徹底した粛清と圧政、殺戮であり、その過程でひたすら恐怖が植え付けられたとされる。そして、長征における英雄的な渡江作戦も作り話であり、日中戦争において毛沢東は日本と戦おうとせず、中国の分割を望んだとさえある。
 さらに、もう一つ『マオ』の大きな特徴と言えるのが、「スパイ」の存在である。孫文の未亡人である宋慶齢アメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレー、国民党の有力者である胡宗南などの人物がことごとく中共ソ連の「スパイ」とされており、彼らの存在こそが中共の革命を勝利に導く上で非常に大きな役割を果たしたとしている。
 以上の見方は、中共の公式見解に異を唱えるだけでなく、従来、欧米や日本で蓄積された研究成果を真っ正面から否定するものである。ただこうした歴史像は、全く初めて見るものではない。冷戦初期の欧米や台湾における中国革命の研究、そして中ソ対立時のソ連の研究には、その原型となるものが確かに存在していた。言うなれば、それは中国革命が輝かしいものとして語られていた時期の「影」の部分であり、決して一般的なものとは言えなかった。研究の進展は、陰謀やスパイ、ソ連の援助に対する過大評価を克服しつつ、他方で、革命の成功の原因は中共と農民の利益が一致していたからだという公式見解からも距離をとることで、党と農民との関係を等身大にとらえ直す方向に向かった。しかし、社会主義体制が崩壊し、その暗部がクローズ・アップされるようになって、かつての「影」が再び甦ってきたのが『マオ』であると言えよう。


★ あまりにも非人間的な毛沢東
 『マオ』では、二四歳の学生の時に毛沢東が書いた文書に、彼の人格の中核をなす、絶対的な自己中心性と無責任さが表れており、その後六〇年の人生において変わることなく彼の統治を特徴づけたと記述されている(『マオ』上巻、35頁)。しかし、誰にも学生時代を振り返ってみれば、過激なことを口走ってみたり、虚無的なことを書いたりしたことくらいあるだろう。それが生涯にわたって人格の中核的なものになると本当に言えるのだろうか。つまり、そこには経験を積むうちに個人の思想を発展・修正し、あるいは堕落するといった複雑な思想形成の過程が抜け落ちているのである。
 『マオ』の第一部は、「信念のあやふやな男」と題されており、毛沢東共産主義に対して「絶対的信念」を欠如していたと評価している。しかし、マルクス主義が伝播したばかりの一九二〇年代の中国において、共産主義に対する「絶対的信念」なるものを持っていた人間などそもそも殆ど存在しないだろう。
 一九一九年に毛沢東は『民衆の大連合』という著作を出しているが、当時の彼はマルクス階級闘争よりもクロポトキンの相互扶助思想に傾倒している。つまり、毛沢東もまた五四運動期の他の知識青年と同じように、さまざまな思想にふれ、どのようにして中国を改革するのかを模索していたのである。「あやふや」に見えるのは、様々な可能性があったことを示している。重要なのは、こうした状態からどのようにして自らの思想を選び取り、形成していくのかということである。
 逆に言えば、ナイーブで理想主義的な一人の青年が、共産主義に目覚めて、革命において暴力を選択せざるを得なくなり、大いなる抑圧と悲劇を生みだしていく、そうした過程と時代状況こそが本当に恐ろしいのではないだろうか。しかし、『マオ』はこうしたことを全く意識せず、一貫して打算的で私利私欲のみを追求する毛沢東しか描いていない。毛沢東の「神話」を否定するあまり、等身大の彼をとらえきれず、別の「神話」を作り出していると言ってよい。


★ 大胆すぎるスパイ説――しかし、その根拠は?
 『マオ』ではソ連及び中共の「スパイ」が重要な役割を担っており、そのあまりに大胆すぎる仮説が、センセーショナルな反響を呼び起こした原因にもなっている。例えば、通説では関東軍の河本大作大佐が首謀者とされる張作霖爆殺事件も、『マオ』ではスターリンの指令によってソ連のスパイが行ったとされている(『マオ』上巻、301頁)。しかし、もしそうだとすれば河本大佐とは何だったのか、なぜ当時の首相であった田中義一が辞めなければならなかったのかさえ分からなくなる。スパイ説の根拠は、GRU(旧ソ連国防省参謀本部諜報部)に関する本の記述であり、その性質が全く不明で、スパイの自慢話や出世のためのでっち上げの可能性もある。これだけの記述で、多くの史料によって裏付けられている河本首謀説を覆すことはできない。
 次に日本でも大きな反響を呼んだ、国民党の軍人でありながらソ連中共の「スパイ」となった張治中が日中戦争の全面化を仕組んだ、という説を具体的に検討しよう。『マオ』によれば、張治中は第一次国共合作時に中共に接近し「スパイ」となり、盧溝橋事件の勃発直後にスターリンの意を受け「冬眠」から目が覚め、第二次上海事変のきっかけとなった大山事件を引き起こし、日中の全面戦争をもたらしたとある。『マオ』が張治中を「スパイ」としている箇所を引用しよう。


張治中は回想録の中で、「一九二五年夏、わたしは共産党に心から共鳴し……『紅色教官』『紅色団長』と呼ばれていた……わたしは中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」と書いている。周恩来は張治中に対し、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい、と要請した。こうして、一九三〇年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取り合うようになった。(上巻、342頁)


 この引用箇所の最大の問題点は、下線部の根拠が全くなく、著者の単なる憶測に過ぎないことである。つまり、どのような方法で張治中がソ連大使館と連絡を取っていたのか、どのようにしてスターリンからの意を受けたのかという重要な問題について、全くといっていいほど明らかにしていない。そして、第二次上海事変のきっかけとなった大山事件については

しかし、八月九日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである(『マオ』上巻、342頁)。

 この傍線部も根拠がない。おそらく、張治中の回想録の中にある、部隊を派遣して空港の警備を強化させたという部分から推測したと思われる*2。さらに『マオ』が挙げている、事件に関わった兵士の回想録にあたると、それぞれ国民政府軍兵士が大山中尉を射殺した状況を記している。しかし、それらはいずれも張治中の命令によって行ったとは書かれていない*3
 これらの史料から、スターリンの命を受けた張治中が日本との戦争を全面化させるために事件を仕組んだとするのは、かなりの論理的飛躍が必要であろう。大山事件は、抗日意識の高まりを背景として、新しく配属された兵士が日本の陸戦隊の車を見て慌てて射撃したため起こったという通説と比べると説得的と言えない。
 『マオ』では、何故かくも「スパイ」が強調されるのだろうか。それはこの本の目的は、毛沢東中共「神話」の全面的な否定にあるからである。しかし、それを徹底すればするほど、どうしても一つの難問が立ち上がる。それはそこまで無能で粛清を繰り返した毛沢東中共がどうして中国革命を成功させることができたのか、という問題である。そこで『マオ』はこの難問を解決するロジックとしてスパイ説を採用するのである。しかし、それは上記のような危うい推定のもとでしか成り立っていない。

★ いかに歴史を書くか?
 著者たちは、従来の毛沢東伝と一八〇度異なる「誰も知らなかった」毛沢東を打ち出した。彼ら『ワイルド・スワン』のような「物語」ではなく、真実の「歴史」を描こうとしたと言ってよい。だが、その「真実」は、余りにも非現実的に歪曲された毛沢東であり、また史料の扱いも矛盾に満ちていて、自分たちに都合のよい歴史像のために利用している。
 しかし、私たち歴史家がとる立場は、こうしたものと異なっている。そこでは史料批判が存在し、様々な仮説を立てて比較し、どの因果関係がより説得的で蓋然性があるかを検討する必要がある。より正しい歴史に近づくためには、あり得るかもしれない因果関係をできるだけ多く徹底的に考え抜かねばならない。もし『マオ』の著者たちがこうしたことを行っていれば、その「真実」も違ったものになっていたかもしれない。
 毛沢東の死からちょうど三〇年経ち、中国においてさえも毛沢東や革命の脱神話化が進んでいる。著者だけでなく、私たち日本人までもが「神話」を否定するあまり、別の「神話」に陥るのは全くの不毛であろう。かつて私たちは等身大の中国を認識できなかったがために、敗北に終わった戦争を起こしてしまったのではないか。今後、私たちが中国や他のアジア諸国とより適切な関係を築くためにも、等身大の「実像」を求めていく必要があるだろう。

大沢武彦(おおさわ・たけひこ▲1973年生まれ。中国近現代史

*1:より詳しい『マオ』の問題点や反響については、私のブログ「多余的話」(http://d.hatena.ne.jp/takeosa75/)の2006年7月22日のエントリーと、矢吹晋「特別書評 『マオ−誰も知らなかった毛沢東』」(21世紀中国総研編『中国情報源2006-2007年版』蒼蒼社2006年)等を参照。

*2:張治中『張治中回憶録』北京、文史資料出版社、1985年、117頁。

*3:中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会・「八一三淞滬抗戦」編審組編『八一三淞滬抗戦』中国文史出版社、1987年、34〜54、87〜105頁、董昆吾「虹橋事件的経過」中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会編『文史資料選輯』第二輯、1985年。