多余的話

大沢武彦のブログです。

ユン・チアン,J・ハリデイ『マオ―誰も知らなかった毛沢東 上』(その9)

えらい間隔が空いて申し訳ないです。

さて、今回で『マオ』についてまとまった書評エントリーを書くのを最後にします。それでは、続きです(僕の『マオ』に対する評価をまとめて読みたい方は、[『マオ』書評]をクリックしていただけると便利です。順番が逆で申し訳ないですが)。

  • スタイルについて〜おわりにかえて

これまで、『マオ』の論証の問題点などを記してきた。今回は、この本のスタイルについて考えてみたい。


かつて山形浩生氏がコメントしたように、この本の記述は、ひたすら時系列順に毛沢東に関するエピソードが論述されており、文学的な処理は良くも悪くも少ない*1。そして、そのスタイルは「こういう史実が存在した」や「ある事実の原因はこうだった」、「歴史はこう流れた」等と極めて断定的に記述しているのが特徴である。


そこでは、その史実が存在しなかったかもしれない可能性や、歴史の流れを別の形で描き出せるかもしれない可能性は全くと言ってよいほど考慮されていない。これは読者にとって、流れが一本調子で理解しやすいというメリットを持つ反面、「単純で退屈」になりやすいデメリットを持っている*2。さらに言えば、読者がこの本とは全く異なる見解や筋立てを抱いた場合、とたんに説得力を失う可能性もあるだろう。なぜなら、読者にとってみれば、なぜ自分の考えた可能性があり得ないのかが、全く言及されていないからだ。そして、本書はかつての毛沢東に対するイメージや研究をプロパガンダ或いはそれに騙されたものとしてあっさりと切り捨て、まるであたかも高見に立って「真実」の歴史を描くという姿勢をとっている。僕がこの本に対して一番感じた違和感はそこにある。


しかし、歴史家の作業によるものは、そうしたものと異なっている。そこでは「史料批判」が存在し、論を立てるに当たって様々な仮説を立てて比較し、どの因果関係がより説得的で蓋然性があるのかを検討するからだ*3。そこで必要とされ資質は「疑い、ためらい、行ったりきたりすること」である。そして、歴史の考察の「深さ」を決めるのは、「ありえたかもしれない」因果関係をどれだけ多く徹底的に考え抜いたかということにあると僕は思っている。


『マオ』は確かに多くの「事実」を集めたかもしれないが、こうした考察がほとんどなく、その因果関係も根拠となる資料の差異を無視して著者の実感にのみ基づいて結びつけているに過ぎない*4。その時に僕が感じるのは、なぜ別の資料は使えないのか、なぜ別の因果関係があり得ないのかという違和感なのだ。


最後の僕のこの本に対する結論はこうだ。


『マオ』は、とても精力的に資料を収集し、新たな「真実」に迫ろうとした。その努力は評価してもよいと思う。ただ、惜しいのは、彼らが歴史学の積み上げてきた方法論を十分に取り入れず、史料批判を余りにも軽視したことだ。そのためこの本はセンセーショナルであったかもしれないが、毛沢東の伝記、そして20世紀の中国を描く歴史書としては、とても及第点をつけられるものではない。もし彼らが歴史学のスタイルを取り入れれば、そしてもう少し史料に対して謙虚になっていれば、この本はもっと良いものになったと思う。その意味で、過去の「事実」を確定するための方法論として、今でも歴史学の果たす役割は重要なのだ。


最後に、マルク・ブロックの言葉で締めよう。

嘘と誤った噂の毒素にかつて以上にさらされている現代において、〔歴史学の〕批判的方法が教育科目の片隅にさえ載っていないのは何たるスキャンダルであろうか。なぜなら、これはいくつかの専門的研究のつつましい補助にすぎないものではなくなったからである。この方法には今後、はるかに広い地平線が開けているのが見える。そして、歴史学は、こうしてみずからの技術を練り上げつつ、真実への、つまり正義への新たな道を人々のために切り開いたことを、最もたしかな栄光のひとつと数える権利があるだろう(マルク・ブロック/松村剛訳『新版 歴史のための弁明−歴史家の仕事−』岩波書店、2004年、115頁、〔〕は引用者による)。

*1:http://reflation.bblog.jp/entry/252788/ のコメント欄を参照。

*2:小田中直樹歴史学ってなんだ』PHP新書、2004年、150〜151頁。小田中直樹氏は、歴史家の営みと教科書の書き方とを対比させる形で、この内容を記している。言うまでもなく、歴史家の営みと『マオ』との対比で使用するのは、あくまでも僕の個人的な判断によるものである。

*3:もちろんこれは一つの理念形であり、例外が多数存在するのは言うまでもない。ここでは小田中直樹、前掲書や渓内謙『現代史を学ぶ』岩波書店、1995年が描く歴史家の仕事を念頭に置いている。

*4:この点に関しては、アンドリュー・ネイサン「翡翠とプラスチック」も参照。