友人の中国研究者(歴史の人が多いですが)に会うと、たいてい聞いている質問がある。「最近、中国行っている?」「中国、どうだった?」と言うものだ。
人よりも中国については詳しいつもりであるが、しかし、香港を除けば、ここ数年中国大陸に行っていない。中国に留学していたのは、すでに20年ほど前である。ここからは年寄りの話になるが、当時留学していた長春から、旅行で行った北朝鮮国境付近の延辺まで、12時間ほど電車に揺られていた。ゴミも電車の床に捨て放題で、時々掃除の人がやってきて一遍に掃除していたのをよく覚えている。しかし、高速鉄道の出現によってこうした体験はすでに中国人でさえ過去のものとなった。
そして、本書のテーマとなる監視カメラ・ビックデータ・スマホ・アプリ・信用スコア等々、断片的にはニュース等で見るが、そこで何が起こっているのか、もやもやしつつ、全く中国の変化に全く追いつけていない僕であり、その焦りが冒頭の質問になるのである。そんな僕が、本書の出版を聞き、早速、購入して読んでみた。
本書はおおよそ二つに分かれている。大まかに言えば、前半は、中国における監視カメラ・ビックデータ・スマホ・アプリ・信用スコア等々について紹介・分析を行っているのが、高口康太氏が執筆する部分である。それを受けて、後半は、新疆ウイグルなどの問題をからめつつ、それがどのような意味を持つのか、歴史や社会思想を縦横に用いつつ分析しているのが、梶谷懐氏の部分である。
まず、 本書のメリットとしては、中国における監視カメラ・ビックデータ・スマホ・アプリ、信用スコア等々について、その最新の状況がある種の見取り図として紹介されていることが挙げられる。これは大変に勉強になった。
個人的にも大変に興味深かったのは、行政の電子化の話を描いたところである。行政の証明書等をスマホで持ち歩けるようにした試みの紹介は、それを管理している行政の公文書はどのようにしているのかと思い至り、なぜ中国にはできるのか、そして逆に言えば日本にはできないのか、この点は僕も少し調べてみようかと思った。
そして、本書の後半は、この現象を単なる一過性の紹介には留めない、幅広いスパンで考えようとするものになっている。それは、アジアにおける「公」と「私」とは何か、その「公共性」とは何かまでを含むものになっている。この指摘は重要かと思った。
これらのキャンペーンや政策が、その苛烈さにも関わらず広く人々の支持を得ているのは、限度を超えた「私利私欲」の追求が横行する現代社会において、何らかの「公共性」を実現するためには党の権力に頼らざるを得ない、と多くの人々が考えているからではないでしょうか(151頁)
とは言いつつも、梶谷氏も断っているが、中国の伝統社会を分析した溝口雄三氏や寺田浩明氏などの議論を中国共産党支配下の現代中国にあてはめるのは、果たして適切なのか、という違和感は率直に言うと最後まであった。
だが、現在、中国で起きている「監視社会化」を他人事として切り捨て或いは傍観するのでなく、中国固有の問題にも配慮しつつ、日本も含めた世界が直面している「近代」の問題として捉えようとする著者お二人の姿勢は、大変、共感するものであり、とても重要だと思う。その意味で、単なる中国本ではない射程を有する希有な本にもなっている。