多余的話

大沢武彦のブログです。

読了、小野寺史郎『戦後日本の中国観』中公選書、2021年

 

過日、著者の小野寺史郎さんから御献本頂きました。ありがとうございました。

で、早速に読みました。以下に述べるように大変に勉強になった良書であることは間違いないのだが、何というかこれまで体験したことない、不思議な読書体験でもあった。

 

それは何故かというと、本書の著者、小野寺史郎さんと単に面識があるだけでなく、レベルが違うことは間違いないが、自分の中国研究体験と彼の中国研究体験が、相当程度重なっているというからである。「あとがき」にもあるが、第5章は、小野寺さんの研究生活の中で体験したり見聞きしたりしたことを元に構成されている部分があるとしている部分であるが、それは僕が体験したり見聞きしたりしたことでもあるからだ。それゆえ、第5章は自分がほとんど出てこないのに、まるで自分がいるかのような不思議な感覚になったのである(一応、一ヶ所だけ出てます)。読書をしながら、ここには僕がいる、自分の体験が「歴史」となったような、そんな気分であった。

 

で、少し回想してみると、私が博士課程に入り、東京にやってきたばかりの時に、ちょうど小野寺さんも東京にやってきて修士課程に入った時だったのだ。当時、確か、僕は初めて歴史学研究会の大会に参加した時に、小野寺さんと出会ったのを覚えている。僕は彼にどんなテーマを研究しているのと聞いた時に、中国の国旗をテーマに研究していますと答えるのを聞いて、卒論を書いたばかりの院生なのに非常にセンスのあるテーマを選んでいるものだと少し驚いたのを覚えている。

 

 

 

で、また、回想すると、僕が中国大陸に留学した際には、ちょうど彼も留学しており、僕の留学先であった吉林大学に遊びにきてくれて大変に嬉しかったのである。と、ここまでながなが書いて、本書を客観的かつ第三者的に評価するというのは全くもって不可能であるのを感じつつも、少し本書の感想などを述べてみたい。

 

本書は、近代以来、特に戦後の日本の中国近現代史研究の史学史とも言える書であり、日本の研究者たちがこれまでどのような視点から中国を観察し分析してきたのか、そこで何が論点となったのかを明らかにした本である。そして、それは現在の私たちが中国を論じる際に依拠している枠組みが、どのように作られてきて、どのような特徴をもつのかを知ることにもつながる、とする(ⅵ頁)。

 

本書のメリットは、明治以来の日本の中国観から、ほぼ現在までのおよそ150年間、頂点的な研究者のみならず、近現代史という範囲はあれど、驚くほどの多くの研究者の言説をサーベイして、その見取り図を描いていることにあろう。その見取り図は鮮やかであり、非常に分かりやすく読みやすいのが素晴らしい。

 

そして、もう一つのメリットとしては、それらの言説を生み出し、再生産するインフラとなる研究会や研究所、学術誌の動向などにも目配りがなされている点である。日頃、何気なく所属し、恩恵を受けている研究インフラに、こういう背景があったのかと改めて再確認をしたといところに意義がある。

 

しかし、その見取り図が鮮やかで分かりやすい反面でもあるのだが、小野寺さん自身が少し述べているように、ある種の内的な葛藤とかが見えなくなっている所はあるのも感じた。

 

少し具体的に述べれば、例えば、中西功の位置づけは少し疑問であった。戦後、中西功は文化大革命を否定し、中国共産党にも批判的な、マルクス主義者としての位置づけが与えられる。それは日本共産党の立場からと言う整理がなされる。それは決して間違っているわけではないが、私個人としては、日本共産党と言うよりは、オールドボリシェビキ的立場というか、もっと大きく言うと、戦前の彼の中国共産党へのシンパシーや体験に基づくものであったと思われる。これは個人としても少し考えてみたいことでもある。

 

とは言え、何かを考えるには見取り図や地図がなければならない。個人的な体験は抜きにしても、この本は今後、中国を考えるという行為における重要な見取り図となる本であろう。