率直に言うと、同書は、当初、表面的にはよくある所謂「反中国」本のように見え、スルーしていた。この本を読もうと思ったのは、実はたまたま安冨歩さんの以下の書評を読んだからだ。
週刊読書人8月27日号 楊逸・劉燕子著『「言葉が殺される国」で起きている残酷な真実』(ビジネス社) 【評】安冨歩 / 東京大学 東洋文化研究所教授・社会生態学
https://dokushojin.com/review.html?id=8374
これを読むと、安冨歩さんは、天安門事件に加わっていたのだなと少し驚きつつ、最後の段落を読み、しばらくしたら同書のKindle版を注文していた。
あとがきによれば、これも中国共産党百年の本となるようだ。
本書は中国共産党創立100周年に際して出版されますが、「とりあえず、100周年に便乗しよう」という類いのものではありません。文学という切り口から、マルクス、レーニン、毛沢東などによりイデオロギー的に飾りつけられた中国共産党と、いったいどのような存在であったのか。100年という節目に、改めて考えてみたものです。
最初は、楊逸さんと劉燕子さんの自己紹介から始まる。大まかに紹介すると二人とも幼少期を文革で過ごし、やがてそれぞれの天安門事件体験をしつつ、日本へとやってきて、作家・評論活動を行うようになるという流れだ。
そして、本書の価値を高めているのが、単に中国共産党という組織がいかにひどいか、「悪」であるかを述べているだけでなく、さまざまな文学作品を通じてなぜそうであるかを論じている部分にあると思う。例えば、魯迅やジョージオーウェルといった定番の作家だけでなく、莫言・王小波・ヘミングウェイ、ミラン・クンデラ、寥亦武にまで及ぶ。で、自身を省みるに名前は知っていても、後者の方については、ほとんど読んでいなかったので、本書を読んで改めて読んでみたくなった。
そして、本書の指摘として重要なのは、中国には体制に順応した「ブタ」しかいない、共産党のすごさは、人間の肉体の消滅だけでなく、魂にまで入り込んで空っぽの人間を作ったことにあるという点だ。そこで考えるのは、日本人である僕は、果たして「ブタ」ではないだろうかと。果たして独立独歩のイノシシとなっているのか、ということだ。そうすると、本書で描かれている中国共産党の「悪」は中国共産党によるものだけでなく、現代的な何か普遍的なものとも読めるのである。そうした点を考える上でも意外と重要な著作なのかもしれないと感じた。