多余的話

大沢武彦のブログです。

覚え書き、1945年8月、スターリンが毛沢東に送った電報をめぐって

将来はひょっとすると論文か雑文か何かにもなるかもしれないが、取りあえずの暫定的なメモ。

 

中国とソ連との関係を調べてみると、驚くような基本的な文書が、2022年の現在に至っても、なお見られないと言うことがある。その代表例の一つが、日本の敗戦後にスターリン毛沢東に送ったと言われている国共の内戦を停止して、中国共産党に国民政府との交渉に応じるように求めたという電報である。ある人に研究会で指摘を受けて、僕も少し調べて見たところ、この電報は確かにその原文を見たことがあるという人は本当に毛沢東周恩来及びその周辺に居た人レベルだけであり、あとはその伝言ゲームで成り立っていることがわかる。

 

例えば、いささか古いが、徐焔著・朱建栄訳の以下の本では次のように書かれている*1

113頁

終戦直後の8月20日ソ連共産党中央は延安に極秘電報を送り、毛沢東重慶に赴き、国民政府と会談するよう求め、「中国共産党は内戦を起こしてはならない、さもないと民族と国家は壊滅する危険性がある」と警告した。

 この電報の原文は1947年党中央が延安か撤退した時に焼却したため、現在中国国内で引用されているものは全て、電報に目を通した人の記憶や証言によるものだが、その信憑性については、ほぼ疑問を挟む余地がない。

中国の歴史家の本を改めてチェックしたところ同じような記述が書かれている。

例えば楊奎松『毛沢東与莫斯科的恩恩怨怨』(広西人民出版社、僕のもっているのは1999年版)232頁の注45に、中国とロシアの研究者が何度も探したけれども、原文が見つからないとされている。この問題について、僕が知っている限りで一番、詳しく書いているのが沈志華「斯大林与中国内戦的起源(1945〜1946)」(『社会科学戦線』2008年10期)である。

(117頁)モスクワのこの電報については、最初に毛沢東が1956年4月に一次政治局拡大会議で言及しており、内容は前出のとおりである(『毛沢東選集』第5巻、北京、人民出版社、1977年、286頁)。胡喬木の回想によれば、1960年7月の北戴河会議場で周恩来が、電報はすでに存在しない、燃やされたのであろう、電報の届いた日付は22日か23日であり、内容については前述の通りと述べている。劉少奇は会議上でさらに以下の一句を補っている。「彼らは我々の路線は誤っており、我々の路線を考え直す必要がある」と述べている(劉中海・鄭恵・程中原編『回憶胡喬木』北京、当代中国出版社、1994年、401頁)。この問題に関するロシアの档案は現在なおまだ機密解除されていない、しかしディミトロフの日記が証明するようにこのような電報は確かにある。日記によれば、8月18日ディミトロフと解任されて間もない駐華大使のパニュシキンと共同で毛沢東への電報を起草し、その意図は「情勢に根本的な変化が生じているため、中国共産党の指導層に対し蔣介石政権への路線を変更するよう提案した」とある。二日目、モロトフがこの電文に同意を示した(Димиитров Дневник с.493)。この電報を受け取った時期については、『周恩来年譜(1898〜1949)』615頁では「22日前後」と明記している。この電報が19日以後に発せられたと考えれば、中共の戦略方針が20日は以前のままであり、21日変化が開始したとすれば(電報を見た後)、それ故筆者は中共が電報を受け取った時間は20〜21日の間であると断定すべきであると考えている。この他に、師哲の回想によれば、スターリンは相次いで二つの電報を送ったとある(師哲回想、李海文整理『在歴史巨人身辺ー師哲回想録』北京、中央文献出版社、1991年、第308頁)。このことは現在なお調査して証明できない。

なるほど、と思いつつ、電報の送った時間すら分からないという。なんかこういう話を見るといつも行き着く先が師哲の回想録になるというのも複雑な気分である。あと、ロシア語が読めないが、ディミトロフの日記は以下のものと考えられる。Kindle版もあるらしい。

 

それにしても不思議なのは、この時期の最高機密とされるであろう電報や資料は、1947年の延安撤退時に「燃やされている」ということだ。これは実は師哲の回想録にもある。日本語版だと104頁に僕の持っている中国語版だと202頁に、延安撤退前に、毛沢東が、ソ連との機密文書を全て廃棄するよう命じたことが書かれている。

 

しかし、それにしても、電報であればロシアにも原文があるのは恐らく間違いないし、2022年にもなっているのに機密の解除がなされないのだろうか。やはり中国との関係を慮っているのだろうか。まだまだ明らかになっていないことは一杯あると思った

 

 

 

*1:ちなみに、同書はこの本の訳者である朱建栄が著者の許可をとって、3分の1ほどを執筆したと言われている(朱建栄『毛沢東朝鮮戦争岩波現代文庫版、2004年、454頁。)