多余的話

大沢武彦のブログです。

ユン・チアン,J・ハリデイ『マオ―誰も知らなかった毛沢東 上』(その8)

最近、山形浩生さんの「各種の噂」id:kaikaji:20060211さんに好意的に紹介されたおかげで、多くの人に来ていただいております。『マオ』に対する関心の高さもあるのでしょうが、実はかなり驚いております。大変遅くなりましたが、この場を借りて、みなさんに謹んでお礼申し上げます。ありがとうございます。


とは言え、相変わらず更新が遅いですが、『マオ』の書評については、今回を含めてあと2回で終わらせようと思っています。それでは続きです。

  • スパイについて

前述したように同書の大きな特徴と言えるのが、「スパイ」の存在である。本書では、宋慶齢や張治中、邵力子、胡宗南、衛立煌、アグネス・スメドレーなどの人物がことごとく中共ソ連の「スパイ」とされており、彼らの存在こそが中共の革命を勝利に導く上で非常に大きな役割を果たしたとされている。


しかし、印象論的に言えば、その論拠は薄弱であり、推論によってつなげている部分が多々あると感じた。ここでは僕が資料元まで確認できた張治中「スパイ」説について検討したい。


本書によれば、張治中は第一次国共合作時に中共に接近し「スパイ」となり、盧溝橋事件の勃発直後にスターリンの意を受け「冬眠」から目が覚め、第二次上海事変のきっかけとなった大山事件を引き起こし、日中の全面戦争をもたらしたという。その上で、同書は次のような極めて「高い」評価をあたえている。

張治中は史上最も重要な働きをしたスパイと呼んでも過言ではないだろう。ほかのスパイは大半が情報を流しただけだが、張治中は事実上たった一人で歴史の方向を変えた可能性が大きい(上巻、344頁。)。


余談ながら、中西輝政氏は、同書によって張治中が中共の秘密党員であることは、「ほぼ疑問の余地無く実証されており」、彼が日中全面戦争の引き起こそうとするスターリンの意を忠実に実行し成功したことが「日に追って解明されている」と評価している*1


果たしてそうだろうか。一つ一つ検討してみよう。まず、張治中が「スパイ」である根拠を引用しよう。

張治中は回想録の中で、「一九二五年夏、わたしは共産党に心から共鳴し・・・・『紅色教官』『紅色団長』と呼ばれていた・・・・わたしは中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」と書いている。周恩来は張治中に対し、国民党の中にどどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい、と要請した。こうして、一九三〇年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取り合うようになった。(上巻、342頁)


この記述の根拠となるのが、張治中『張治中回憶録』北京、文史資料出版社、1985年、664〜665頁の箇所と思われる*2


まず、注意しなければならないのが、この記述の根拠が回想録しかないことだ。張治中に限らず、現代中国の人名辞典を引くと、多くの元「秘密党員」や「シンパ」がいる。しかし、その多くはそのままでは鵜呑みにできないものである。なぜなら、言うまでもなく現代の中国において1920年代から中共にコミットしていたという「事実」は、政治的な正統性を付与する「資源」であるからだ。しかも、それを自己申告したところで、確認する方法は極めて限られている(或いはできない)。当然、自らの政治的な地位を高めよう或いは保全しようとすれば、あやふやな事実であっても「膨らまして」申告する動機が存在していることはまず指摘しておこう。


張治中の場合も、回想のあとに次の文章を付け加えている。「もし私の記憶が間違っていなければ、大意は以上の通りである。この件は当然中共の討論を経ているはずである」と*3。つまり、彼もこうした疑問が来ることを当然察知しており、その上で予防線を張っているのだ。けれども、張治中の回想録には、「スパイ」はもとより、入党に関するその他の根拠はない。以上のことを勘案するならば、張治中が中共に入党しようとしたかどうかは、周恩来自身か、中共の首脳部で討論されたのかの裏付けがさらに必要だと思う。


そして、この引用箇所の最大の問題点は、例によって下線「こうして、一九三〇年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取り合うようになった」の根拠となる文献が全く示されていない点であろう。どのような方法で張治中がソ連大使館と連絡を取っていたのか、どのようにしてスターリンからの意を受けたのかという重要な問題については全くといって良いほど明らかにされていない*4。こうした点を明らかにせずに、回想録だけで上のようなことを書くとするならば、少なくとも疑問の「余地」はかなりあると思う。


そして、盧溝橋事件が勃発し、第二次上海事変のきっかけとなった「大山事件」について『マオ』は次のように書いている。

しかし、八月九日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである(上巻、342頁)。

この下線部分も直接的な根拠はない。かろうじて、それが読みとれるのは、張治中の回想の次の部分であろうか。

「第二師団補充旅団が蘇州に到着するのを待った後で、私はその連隊の一つに上海保安隊に変装して、虹橋・龍華の二つの飛行場に入って駐留し、警戒を強化するよう命じた」と*5

この回想自体が正しいのかという問題は、取りあえず、さておく。そして、注釈で挙げられている別の回想では、中国軍兵士が大山中尉を射殺した状況が書かれている。しかし、それはいずれも張治中の命令によって行ったなどとは書かれていない。これらの資料から、スターリンの命を受けた張治中が日本との戦争を全面化させるために事件を仕組んだとするのは、かなりの論理的飛躍が必要であろう。一般に言われているように、この事件は、抗日意識の高まりを背景として、新しく配属された兵士が、日本の陸戦隊の車を見て慌てて射撃したため起こったという説よりも説得的だとは僕には思えない*6

そして、同書は第二次上海事件後の状況をさらに次のように記している。

蒋介石上海事変の勃発に怒り、落胆し、張治中の正体に疑いを抱いて、9月に司令官の職を解任した。しかし、蒋介石は張治中を公には暴露しなかった(上巻、345頁)。

この記述も例によって根拠は無い。しかも、ジョナサン・スペンス氏が主張するように、張治中のその後の経歴と明らかに矛盾している*7
回想録によれば、上海事変後、彼は11月に湖南省の主席となっている。そこで彼は10年ぶりに中共との友好関係を回復し、中共湖南省代表・徐特立やしばしば長沙に来ていた周恩来葉剣英とも関係が良かったとある*8。回想録のこの記述は、明らかに『マオ』と矛盾している。なぜなら、上海が陥落し、国民政府も南京から武漢に撤退する最中に、その要地となるであろう湖南省の主席は決して「左遷」とは言えないからだ。そして、万が一、蒋介石が張治中の「正体」に疑いを持ったならば、中共党員との接触など許すであろうか*9。前回と同様に、今回の考察から『マオ』の筋立てが極めて危うい推論の積み重ねで成り立っていることは明らかであろう。


以上、張治中の例だけであるが、「スパイ」説の根拠が極めて薄弱である点は、証明できたと思う。そこで、さらに一歩進んで、本書では何故かくも「スパイ」が強調されるのかを考えみたい。前述したように、この本の最大の目的は、毛沢東中共「神話」の全面否定にある。しかし、それを徹底すればするほど、どうしても一つの難問が立ち上がらざるを得ない。それは、そこまで無能で粛清を繰り返した毛沢東中共がどうして中国革命を成功させることができたのかという問いである。そこで、『マオ』はこの難問を説明するロジックとして「スパイ」を使うのである。しかし、それは極めて危うい推定のもとでしか成り立たないものであると僕は思う。そもそも、少数特定の「スパイ」のみで、歴史は動くものではない。

(その9に続く)

*1:中西輝政「暴かれた現代史―『マオ』と『ミトローヒン文書』の衝撃」『諸君!』2006年3月号、37頁。

*2:「思われる」と書いたのは、『マオ』の文献一覧によれば、Zhang Zhizhong Zhang Zhizhong huiyilu (Zhang Zhizhong Memoirs), zhongguo wenshi chubanshe,Beijing,1993 となっており、発行年が異なっている。1985年の改訂版が1993年に出た可能性も否定できないが、ただ1993年のものはNACSISや東京大学東洋文庫等で探した限り存在が確認できず、また僕が確認できた1985年のものは『マオ』が引用するページ数と内容が一致しており、『マオ』の誤記の可能性が高いと判断してこれを使用した。なお細かいことだが、『マオ』の日本語版注釈に、ZZZ cable to Nanjing,30 July 1937.、なる表現が出てくる(注釈p.25)。「ZZZ」なる表記が最初、何を意味するか分からなかったのだが、英語版を見て張治中(Zhang Zhizhong)の略記であることがわかった(米国版、201頁)。米国版の本文には略記の記載があるが、日本語版には無いため全く意味不明の表現となっている。新しく注釈を修正する際には、この部分の修正も必要だろう。

*3:張治中『張治中回憶録』北京、文史資料出版社、1985年、665頁。

*4:極めて薄弱な根拠としては、同箇所の2頁あとに「張治中と接触したソ連大使付武官レーピンとソ連大使ボゴモロフは、直後に本国に召還され処刑された」部分も挙げられようか(上巻、345頁)。しかし、著者も依拠する、ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道』共同通信社、1999年、124〜126頁によれば、ボゴモロフの処刑は、張治中と何の関わりもない(おまけにボゴモロフと張治中が接触したという話も無い)。彼が粛清された理由は、ソ連政府からの指示を国民政府に誤った形で伝えたこと、そして、間違った中国情報をモスクワに報告したためとなっている(レーピンについては不明)。

*5:張治中『張治中回憶録』北京、文史資料出版社、1985年、117頁

*6:大山事件については、影山好一郎「大山事件の一考察−第二次上海事変の導火線の真相と軍令部に与えた影響」『軍事史学』第32巻第3号も参照。

*7:Jonathan D.Spence 'Portrait of a Monster' The New York Review of Books vol.52,no.17,(2005).http://www.nybooks.com/articles/article-preview?article_id=18394

*8:張治中『張治中回憶録』北京、文史資料出版社、1985年、672〜673頁

*9:もちろん、回想録が信用できるのかという問いも当然成り立ちうる。しかし、だとすれば、著者が入党志願のエピソードを採用できるにも関わらず、この矛盾する部分を考察しない理由を説明しなければならないだろう。