多余的話

大沢武彦のブログです。

読了、E・H・カー『歴史とは何か 新版』岩波書店、2022年

ようやく、少し理解できたような気がすると感じた。

 

 

思えば、そして多分に漏れず、20幾余年前に、大学の学部で歴史学を専攻した際に最初に読んだのが、清水幾太郎訳であり、何だかよく分からなかったのである。で、当時、交流のあった先生からは、「E・H・カーの『歴史とは何か』は常識的なことを言っているから、もうちょっと別の本も読んだ方が良いと言われ」たのを覚えている。そして、ぼんやりとしか理解できなかった僕は、これが「常識」的と言われたところが、妙に引っかかったのをよく覚えている。

 

そして、大学院で歴史学を勉強し、歴史学入門みたいな授業を任された時に、清水訳を再読をした。その時、これはけっこう奥深いぞと感じ、特に第4講の「歴史における因果連関」は、得心することが多く、結構、影響を受けたような気が勝手にしている。

 

で、今回は、近藤和彦さんによる新訳である。これはおそらく清水さんのものと全く別物と言える内容となった。詳しくは、近藤和彦さんによる非常に丁寧な解説を参照して欲しいが、個人的には、「E・H・カー文書」と「自叙伝」は、そうだったのかと思うことしきりであり、本書の理解を随分助けてくれた。

 

で、「常識的」ということをもう一度考えてみたい。たぶん、この本は、我々が現在において理解している歴史学に対して、真っ向からそれを変革したり否定するようなモデルを提示するのではなく、歴史をするという営みということを根源的に考えようとしているのだと思う。そのため、表面的には「常識」的に見えるのであろうとも思う。しかし、今回再読して、やはりその射程はかなり深いようにも感じる。

 

今回、印象に残ったのは、「歴史は進歩するのか」という問いである。実は僕が学びを始めたころは、そんなの当たり前じゃんと思っていた。全くもって若さとは恐ろしい。しかし、時が経ち、おそらくそうではないという見方も多くある事にも気づき、それがもはや主流であるとさえ言える時代となった。しかし、カーは歴史の「進歩」をたえず主張し、最後に「それでも世界は動く」と高らかに宣言する。一周回って、僕はこの見方にかなり共感する部分があった。人生、長く生きるものである。特に印象深かったのは、歴史家の仕事は、「過去」を整理して解釈することであるとし、次のように述べる。

未来だけが、過去の解釈に鍵を提供するのです。わたしたちが歴史における究極の客観性を語ることができるのは、この意味でだけです。過去が未来を照らし、未来が過去を照らすというのは、歴史の正統性の根拠であり、同時に歴史の真相であります。(207頁)

 

「究極」の「客観性」なんてすごい言葉をつかうなぁと思ったが、この言葉と歴史における「進歩」は考えてみたいなぁと思った。

 

ただ、多くの人が思うことであるが、本書では、「歴史家」と「過去」「現在」「未来」が出てくるのであるが、なぜ「歴史家」は、いつも一人のように書かれるのであろうかとは思った。僕が思うに「歴史家」も一人ではなく、いろいろな「歴史家」がいて、相互に影響を与えあっているのではないだろうか。その共同体が認識に及ぼす影響を考える必要は果たしてないだろうか。当然、カーが考えない疑問ではないと思うが、なぜかカーはそうした面をあまり言わない。議論をできるだけ、単純にするためだろうか、それはなぜかも考えたいなと思った。

 

もちろん、現代における歴史学というなら、この本だけでは不足かもしれないが、でもやはり現時点でもなお必読に値する本である。そして、近藤和彦さんの丁寧な解説と注釈も理解を助けるのに大変に素晴らしいお仕事だと思う。