多余的話

大沢武彦のブログです。

ユン・チアン,J・ハリデイ『マオ―誰も知らなかった毛沢東 上』(その5)

  • 同書の根拠となる資料

本書がこれまでの毛沢東に関する伝記と大きく異なるのは、次の二つの資料をふんだんに使った点にある。すなわち、多くのインタビューと新しく公開された「東側」の資料、特にロシア・アルバニアのものである。こうした資料発掘の努力こそが新事実の発掘を可能にし、少なくとも本書を単なる「反中国」・「反共産党」本に終わらせない影響力を持ったものにしたと言えよう。

 1.インタビューの活用
下巻に収録されているインタビューリストを見て、その膨大さに驚いた。そこには、毛沢東の親類や知人、最高幹部、指導部スタッフ、重要事件の目撃者といった、中国大陸だけでない台湾・アメリカ・ロシア・日本などの重要人物が含まれていたからだ。その数はアンドリュー・ネイサンによれば、363人38カ国に及んでいる*1

比較的にわかりやすい例を挙げよう。張学良、ジョージ・H・ブッシュ(アメリカ元大統領)、ジェラルド・フォードアメリカ元大統領)、ヘンリー・キッシンジャー、リー・クワンユー(シンガポール元首相)、宮本顕治日本共産党名誉議長)、不破哲三日本共産党書記長)、野坂参三(元日本共産党議長)、有末精三(戦時陸軍諜報活動および原爆計画の責任者)、陳立夫(国民党の政治家『成敗之鑑―陳立夫回想録〈上〉』)、鄭超麟(トロツキスト、『初期中国共産党群像〈1〉トロツキスト鄭超麟回憶録 (東洋文庫)』)、師哲(毛沢東の通訳『毛沢東側近回想録』)等々の錚々たるメンバーである。

そして、多くの専門家にもインタビューしている。目を引くところで言えば、金冲及(『毛沢東伝(1893‐1949)〈上〉』)・楊奎松・沈志華・牛軍・竹内実・秦郁彦藤原彰衛藤瀋吉中嶋嶺雄などである。

以上のインタビューが論旨を進めていくでの重要な根拠の一つとなっている。正直に言って、このインタビューの努力に関しては素直に敬意を表したい。これだけの数のインタビューを行った研究というのは、僕の知る限りほとんど無い。

おそらく二人は、同書に紹介されたもの以外にもかなりの重要な証言を記録しているものと思われる。ただし、残念なのは、その多くが注釈に「interviews with 人名,日時.」としか書かれていないことである。しかし、どのような状況下でどのような質問をした時に、この「事実」が判明したのかということもやはり重要であるので、ぜひともこのインタビュー記録は何らかの形で公開して欲しいと思う(もちろん匿名にせざるを得ないものもあるとはわかっているのだが)。

それは何よりも同書の記述の信頼性を証明するためにも重要であろう。アンドリュー・ネイサンが主張するように、同書の注釈の付け方は、一般的な学術書と比べて不親切な部分がある*2。しばしば見られるのが、とある「事実」の注に多数の資料が挙げられ、例えば一つは研究書、一つは資料集、さいごにインタビュー記録、と並列する形となっていることである(最後は内部発行文献でも可)。まず、気になるのが、この形式では「事実」のどの部分がどの資料と対応しているのかが判別しづらいという点である。そして、当然、前の二つはチェックできても、最後のものは誰もチェックできないというデメリットもある。これは僕は同書の信憑性を損なっているとさえ思う。その意味でも、インタビュー記録をぜひとも公表して欲しいと思うのだ。もちろん、出版されたら僕は買おうと思います*3

 2.文献資料について
本書は、中国語圏で出版された基本資料と最新の研究はかなり押さえていると思う。

まず、『建国以来毛沢東文稿』や『毛沢東軍事文選』、『中共中央文件選集』などの基本資料は当然としつつも、注目すべきは、いくつかの入手困難であろう内部発行資料も使用していることである。正直に言って初めて見た文献も多く、勉強になった。その中でも特に白眉なのは、毛沢東の2番目の妻、楊開慧が彼に宛てた手紙の発見であろう。この部分は、新たな事実発掘という意味からも興味深く読んだ。

加えて、要所要所の記述で、例えば西安事件については楊奎松の研究*4、延安整風運動は陳永発*5、東北の内戦は張正隆*6といった重要な研究を参照している(自分の論旨に合う部分だけを使っている感もあるのだが)。おそらく、前述の専門家のインタビューの時に、いろいろとレクチャーを受けたのだと思う。

しかし、おそらく中国語圏の資料だけでは、この本は書けなかったであろうし、「衝撃的」な事実の大半が、新しく公開された「東側」の資料によるものと考えられる。
以下に、気になった資料を列挙しよう。

・APRF:Archive of the President of Russian Federation.ロシア連邦大統領文書館
・AQSH:Central State Arhive of the Republic of Albania.アルバニア共和国中央政府公文書館
・AVPRF:Archive of Foreign Policy of the Ministry of Foreign Affairs of the Russian Federation.ロシア連邦外務省外交文書館
・RGASPI:Russian state Archives of Socio-Politiacal History, formerly RTsKhIDNI.ロシア国立社会政治史公文書館、もとRussian Center for Preservation and Study of Records of Modern History,ロシア現代史文書保管研究センター*7.

以上が公文書館によるもの。他にも刊行資料では、次のものが興味を引いた。

・Alexander Dallin, Fridrikh Igorevich Firsov, Vadim A. Staklo,Dimitrov and Stalin, 1934-1943: Letters from the Soviet Archives (Annals of Communism Series),Yale University Press,New Haven et al.,2003
・Titov,A. S.,Materialyi k politicheskoy biografii Mao Tsze-duna(Materials toward a Political Biography of Mao Tse-tung),3 vols,USSR Academy Of Sciences/Institute of the Far East,Moscow;vol. 1:to 1935(1969);vol.2:1935-7(1970);vol.3 (titled Borba Mao Tsze duna za Vlast,1936-1945)(Mao Tse-tung's Struggle for Power)(1974). 以下、Titov と略。
・VKP:Komintern i Kitay:Dokumentyi(The A-UCP(b),the Comintern and China:Documents),Titarenko, M.L., et al,.eds, 4vols(1920-1937) to date, Moscow,1994-2003.

取りあえず上巻を例にとると、特に使われているのは、RGASPI(ロシア国立社会政治史公文書館)と最後の二つ、TitovとVKPである。RGASPIが53カ所、Titovが67カ所、VKPが68カ所の注釈で使われている。ちなみに、比較対象として、建国前の中国共産党を検討する上で欠かせない基本資料であるZZDW:中央档案館編『中共中央文件選集』を例に取れば、39カ所で使われている。

これらは、単に引用頻度が多いだけでなく、例えば本書の「新発見」とされる宋慶齢や邵力子、衛立煌が共産党のスパイであるとする説の根拠となっている(順にRGASPI、VKP、Titovが根拠となっている)。ここからも以上の資料が論旨を展開する上で極めて重要な役割を果たしていることが理解できよう。

加えて気になるのが、Titovである。書誌データーを見て気付いた方もいると思うが、発行年度が1969〜1974年、すなわち中ソ対立の中で編纂された資料集である。だとすれば、当然、そこにはバイアスがかかっており、中国革命におけるソ連の役割の正しさと中共の不当さを強調するような資料を重点的に集めている可能性がある。とは言え、この本で初めて知った興味深い資料集ではある。どなたか情報をお持ちではありませんか(NACSISではひっかからなかった)。

  • 小括

しかし、何はともあれ、これだけのインタビューと文献を使った研究書は、全くないと言っても過言でない。前文には同書を完成させるのに10年余りかかったと記されているが、僕から見れば、たった10年余でこれだけのデーターを収集し分析した方に驚いた。この努力に対しては、僕は素直に評価してもいいのではないかと思っている。しかし、その資料の使い方には、正直に言って問題があると思う。

それでは、これらの資料にもとづく歴史像とは何か、そこにはどのような問題があるのか、続けて書いてみたい。

(その6に続く)

*1:アンドリュー・ネイサン「翡翠とプラスチック

*2:アンドリュー・ネイサン「翡翠とプラスチック

*3:個人的には、特に整風運動の目撃者や銭三強(原子力エネルギー研究所長)、アンドレイ・M・リドフスキー(1950〜1952年に在瀋陽ソ連総領事。ロシアの公文書の特別閲覧権を持つ中国学者)、ニム・ウェールズ(ジャーナリスト『中国に賭けた青春―エドガー・スノウとともに』)、あとやはり張学良とのやりとりは全部読んでみたい(たのみこむ)。

*4:楊奎松『西安事変新探−張学良與中共関係之研究』東大図書公司、1995年。

*5:陳永発『延安的陰影』中央研究院近代史研究所、1990年。

*6:張正隆『雪白血紅-国共東北大決戦歴史真相』天地図書、1997年。

*7:同所の資料は、楊奎松『毛沢東与莫斯科的恩恩怨怨(修訂版)』江西人民出版社、2005年でも使用されている。RGASPIについては、島田顕「モスクワのコミンテルン史料―スペイン内戦関連文書の現状」http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/525/525-3.pdf が参考になる。