多余的話

大沢武彦のブログです。

(備忘)水星の魔女は果たして、ガンダムとして果たして「成功」したのか

日曜日に、機動戦士ガンダム 水星の魔女が、無事に完結した。

g-witch.net

 

完成度としては、今世紀に入ったガンダムの中では出色の出来と評価することはできるだろう。それはTwitterでの盛り上がりをみれば、容易に分かる。そして、何だかんだ言いながら、それに付き合って面白く見た自分もいたのである。とは言え、何かこの流れに「乗れない」、五月蠅いガンダムファンとのしての自分もいるのである。そのあたりの違和感を文字にしてみたい。

 

水星の魔女を最初に見た時の印象は、ガンダムというもはや前世紀の物語を、何としても現代的な物語として、打ち出そうとする意欲的な作品であった。まず、何よりも主人公が女性であり、ある種のポリティカルコレクトネスなガンダムとさえ言えるようなキャラクター配置や描写で大いに期待して見続けていた。そして、ある部分では、リフレインするかのように、「メタ」的にガンダムの「呪い」とあるのは、物語の登場人物だけにかけられているものではなく、これを見ている「われわれ」観客にも投げかけられている巧妙な演出ではないかと期待したのである。

 

個人的には、確か第7話ぐらいの「シャル・ウィ・ガンダム?」が一番盛り上がったのである。それは、ガンダムを兵器としてではなく、医療機器として、そして最終的にはビジネスとして完成させるとぶち上げるところが、ひょっとするとガンダムというフォーマットを使いながら、ガンダムを乗り越えるような、もの凄い作品ができるかもしれないという「勝手」な期待がぶち上がったのである。

 

その後、どうするのかと思っていたが、第二シーズンでまた、ガンダムお決まりのドンパチが始まり、地球と宇宙はそもそも何をめぐって対立していたのか、どの組織も結局、何を目的にどのような利益をめぐって争っているのか、何か思わせぶりな描写がでる割りには、さっぱりその世界像が分からないまま、何となくハッピーエンドを迎えたような、そんな印象があるのである。そして、こんなことにこだわっている人もそんなにいないだろうが、結局、第7話でぶち上げた話が、とってつけたように医療機器の少しの描写で終わり、我々は果たしてガンダムの「呪い」から逃れたのであろうかという疑問が残ってしまったのである。と、ここまで書いて、これは自身が「呪い」から逃れられていないということなのだと思ってしまった。